全てを教訓に、今を生きる

今を生きる

昨日は不測の出来事にバタバタとしてしまいましたが、父は元気です。
ご心配をおかけしました。
左足のふくらはぎを少し痛めたらしいくらいで、言動もしっかりしており、昨日の夜トイレに起きてから、その後もずっと今までと変わりなく過ごしています。

昨日、父が倒れたこともそうですが、私的に凄く衝撃だったことがありました。
父が倒れてからずっと母が父の手を握り寄り添っていたのですが、お風呂に入る為に交代した時の事です。
わたしはiPadで、立ち上がって急に倒れた場合、どんな可能性があるのか、数分意識が戻らなかったようなので、脳の異常を考えて今からでも救急車を呼んだ方がいいのか、どのような兆候が見られればすぐに救急車を呼ぶべきか、後日の診察でもいいのか、等調べていました。

呼吸の乱れはないか、苦しそうではないか、ちらちらと父の様子を伺いながら、父とiPadの画面を交互に見ていました。
父が身じろぎをしたので顔を上げると、薄っすらと目を開けた父が、先ほどまで母が握っていた手をこちらに伸ばし、驚くほど優しい、愛おし気な声で「おいで」と言ったのです。
おそらく私と母を見間違えたのでしょう、丁度お風呂から戻ってきた母が、また父の手を握ると、安心したようにまた眠りにつきました。

その後、また母がトイレに立った時に、こっそり父の手に私の手を伸ばしてみました。
寝ているにも拘らず、ぎゅっぎゅと手を握る動きを数回して。そして、またその手を握ったまますやすやと眠っていました。
一階で倒れた後、救急車を呼ぼうとして父が「呼ばんでいい」という前から、母が意識を失っている父を見ながら「手をね、いつもみたいにぎゅっぎゅってしてくれてるから大丈夫だとは思う」と言っていたのは、この動きかと思いました。

私が母に「今日は私もここで寝ようか? お母さん心配でずっとお父さんの様子を見て寝れないんじゃない?」と聞くと「手を握って寝るから大丈夫よ」と言って私に部屋に戻るように言いました。部屋に戻ってからもずっと耳を澄まし、父がトイレに行っている足音に耳を澄ましたり、母と会話しているのを聞いて、やっと「大丈夫そうだ」と安心をして、寝る前のヨガストレッチをして眠りにつきました。
そういえば、布団でちゃんと寝れたのも久しぶりなことに今気付きました。
布団恐怖症の方もどうやら克服できたようです。

――あの時の父の表情が忘れられません。
両親は確かもうすぐ金婚式。
しかもお見合い結婚です。
結婚50年を経て、なお父の表情は愛情に満ち溢れていました。

夫と離婚をすることになり、私が懸念したのは、子ども達が愛情を信じられなくなることでした。
永遠の愛を誓った夫婦でも、別れることはある。
家族である妻や子よりも、他の女性の手を取ることもある。
思春期に入った時に、男女間の愛情なんて信じられない、とならないかと…。

しかしそんな思いは杞憂でした。
そういう夫婦もいる、しかしそうでない夫婦もいる。ただそれだけの事なのです。
私達夫婦が悪い見本であるならば、良い見本である両親が側にいる。一緒に暮らしている。
そのことが、きっといつか子ども達の悩みの助けになる日が来るでしょう。

私が子ども達に言えるのは「見る目を養いなさいね」ということくらいでしょうか。
いや、失敗した私が言えることなど何もありませんね。

私はこれからの自分の生きざまで、背中で、子ども達に今を懸命に生きるということを伝えていけばいいだけなのですから。

子ども達には昨日のうちに改めて、両親の年齢、私達の存在が相当の負担をかけているだろうことを話をしました。
だから、できるだけ手伝えることは手伝おう、自分でできることは自分でやろう。
2人とも血圧は高めなので、何度も同じようなことで怒らせるようなことがないように気をつけよう、と話をしました。
昨日も、もしも説教中に倒れたのだったら、まず脳卒中を疑ったところです。
子ども達も、実際に目の前で祖父が倒れたのを見ているので、神妙に頷いていまいした。

生きていて無駄など一つもない。
良いことも悪いことも、すべてを教訓にして生きていく。
今日よりも明日、明日よりも明後日、未来が希望に満ち溢れたものであるように。

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